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2008年04月30日

中島飛行機

世界有数の航空機メーカーだったそうです。

中島飛行機(なかじまひこうき)は、1917年から1950年まで存在した日本の航空機・エンジンのメーカー。創業者は海軍機関将校であった中島知久平。エンジンや機体の開発を独自に行う能力を持ち、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、太平洋戦争終戦までは三菱航空機を凌ぐ東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。

中島飛行機の沿革
1917年(大正6年):中島知久平が海軍を退官後、群馬県尾島町(現太田市)に「飛行機研究所」を設立。
1918年(大正7年):川西清兵衛が経営に参画、「日本飛行機製作所」に商号変更。
1919年(大正8年):川西から買取り、川西が経営から撤退。「中島飛行機製作所」に商号変更。陸軍から20機を受注。
1925年(大正14年):東京工場完成
1931年(昭和6年): 中島飛行機株式会社(資本金600万円)と改称
1931年(昭和13年):武蔵製作所完成
1940年(昭和15年):海軍機専用組み立て工場の中島飛行機小泉製作所を開設、東武小泉線西小泉駅が玄関駅として利用された。
1941年(昭和16年):中島飛行機の一式戦闘機が、陸軍に正式採用される。
1944年(昭和19年)1月:陸軍機専用組み立て工場の中島飛行機宇都宮製作所を開設、四式戦闘機「疾風」の生産を始める。
1945年(昭和20年)4月: 第一軍需工廠となり事実上国営化された。中島飛行機は営業休止しつつ存続。
1945年(昭和20年)8月: 太平洋戦争敗戦により全工場返還を受け、社名を富士産業に改める
1950年(昭和25年)5月: 解散。
こうして日本の軍事力の強化とともに急速に発展を遂げるが、米軍による戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ各地の工場は灰燼に帰した。敗戦でGHQによって航空機の生産を禁止され、二度と軍需産業に進出できないように12社に解体された。

三鷹研究所跡地大半は国際基督教大学(ICU)となった。武蔵製作所はNTT武蔵野研究開発センタ、武蔵野中央公園、武蔵野陸上競技場(武蔵野総合体育館を併設)などになっている。

その後、技術者の多くは自動車産業へ転進。日本の自動車産業の発展に多大な貢献をした。
(以上、ウィキペディアより引用)

戦争と共になくなりました。

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